朝日の護憲論 あまりの倒錯に驚く (2月9日 BLOGOS ブロゴス)
(前略) 『朝日新聞』は、自衛隊は違憲であるという憲法学者の見解を紹介しながら、、自衛隊の存在を否定したり、
吉田茂の憲法解釈の変更を批判したりするのではなく、安倍内閣の批判へと進む。
「多数の憲法学者と国民の反対を押し切り、集団的自衛権は行使できないとの歴代内閣の憲法解釈を、閣議決定だけで変えてしまったのは安倍内閣である。
自衛隊の存在と学者の見解とのへだたりを問題にするのであれば、安保法制を撤回するのが筋ではないか。「立憲主義の空洞化」を批判するなら、まずは
我が身を省みるべきだろう。」

社説のタイトルが「首相の改憲論 あまりの倒錯に驚く」とあるが、私はむしろ逆に「朝日の護憲論 あまりの倒錯に驚く」
とした方が相応しいと思う。何故なら、「自衛隊の存在と学者の見解のへだたり」が生じたのは遠い過去の出来事だ。
これは吉田茂の解釈変更に端を発する「見解のへだたり」だろう。この根本の部分に目を向ける必要があるのではないか、
というのが安倍総理、そして稲田政調会長の議論の要点だ。それに対して、『朝日新聞』は、そうした「見解のへだたり」
を無視した上で、集団的自衛権の行使容認のみを「違憲だ!」と騒ごうとしているのだ。本を正さずして末に走る議論と
言ってよい。「自衛隊すら「違憲」とみなされるのは、おかしいのではないか?」と多くの国民が思うだろうが、現実に
『朝日新聞』のアンケートでは、憲法学者の63%が「憲法違反」「憲法違反の可能性がある」と答えているのだ。
『朝日新聞』は旗幟鮮明にすべきではないか?「我々は多数の憲法学者の見解を受け入れ、自衛隊を「憲法違反」
「憲法違反の可能性がある」と考えている」と表明するのか、それとも、「多数の憲法学者が自衛隊を「憲法違反」
「憲法違反の可能性がある」というが、それは極端な見解であるから、いくら大多数の憲法学者がそのような極端な
憲法解釈をしても、そうした極論には与しないで自衛隊は合憲と認める」とするのか。
一体どちらなのか?
朝日新聞の自衛隊に関する憲法解釈が「倒錯」しているのは、自衛隊の存在に関しては、多くの憲法学者の主張を無視して、
「違憲である!」と表明しないのに、集団的自衛権の行使容認に関してのみ、自衛隊違憲説を奉じる多くの憲法学者の主張
を鵜呑みにして「違憲である!」と騒ぎ立てるからだ。「自衛隊を違憲である」という人が「集団的自衛権の行使は違憲である」
というのは、一貫していてよい。現実離れした主張ではあるが、「倒錯」してはいない。
だが、「政府の勝手な憲法解釈の変更を許すな!」「立憲主義を守り抜け!」と騒ぎ立てる人々が、吉田茂の解釈の変更に
よって作られ、多くの憲法学者が「違憲だ!」と主張している自衛隊の存在に関しては、否定せず、そして積極的に肯定も
せず、口をつぐんでいるのは、まことにご都合主義的で、倒錯した「護憲論」と言わざるを得ない。

今だに立憲主義という意味が分かりません。憲法を素直に読めば、自衛隊を持っては
いけないということになるのではないでしょうか?よって、「日本は軍隊を持てない→
しかし、これでは日本国民の生命と財産を守ることができない→アメリカに守ってもらう」
これでいいんですよね、立憲主義者の皆さん!
立憲主義者が筋道を立てて説明すればするほど、「違う!」と思ってしまいます。


「腑に落ちない」──正論に感じる違和感の正体 (2015年12月7日 小さな組織の未来学 - 日経BPネット)
現実は論理から、はみ出している
今一度、論理的とはどういうことかを考える必要がありそうです。論理は「AはBである」といったように、常に一本の道筋と
して表されます。そこに揺らぎのなさを私たちは見出すのです。しかし見落としてはならないことがあります。それは物事
が線的に語られるとしたら、特定の条件があるからだということです。つまり、いい悪いは抜きにして、論理は限られた範囲
の中だけを見ているからこそ成り立つのです。たとえばカフェでコーヒーを飲んでいたとして、そのことを人に言うなら
「カフェでコーヒーを飲んだ」と単線的に説明するでしょう。でも、本当にそこで起きていたことすべてを記述しようとしたら、
一生かかってもできません。エアコンの風がどのように揺らいだか。コーヒーを飲んだときの体温や血の流れの変化、隣の
人の声が空気をいかに振動させたか。同時に膨大な出来事が生じています。複雑で起伏に富んでいるはずの現象を削除
してしまうから、「カフェでコーヒーを飲んだ」という単線に約(つづ)めることができるわけです。
「腑に落ちない」時に排除されている現実は何か
現実は決して単線化できない多元的な立体で構成されています。論理に整合性があるとき、私たちはそこに美しさを感じ
ます。それは嘘ではありません。と同時に知っておくべきは、折り合いのつかない現象を排除しているからスッキリした
整合性が成り立つのだということです。そのスッキリさ加減に私たちの体は「違和感」を覚えます。感覚は立体的です。
「いろんなものを感じ続ける」というふうに、絶えず移ろう状態を立体的に把握できます。
「腑に落ちる」とは単線の論理で表せない立体的な納得、得心を意味しています。私たちは「これは〜である」という
言い切りの断片を集めても現実を語ることにはならないと、頭ではない感覚でわかっているのです。「腑に落ちない感じ」
がしたとき、どういった限られた条件や前提でものを見ているのだろうかと、改めて考えてみてはいかがでしょうか。

現実から乖離した専門家の訳の分からん説明は信用できません。
その点、物理学というのはいいですね。現実の生活とはあまり関係ありませんが・・・
物理学者は専門以外のことなど発言しません。物理が専門でないわたしの説明では
今イチだと思いますが、どこぞの憲法学者のようなイデオロギーバイアスはかけて
いません。おかしなところがあったら、単なる勉強不足ですのでご容赦ください。
記事54-9で、重力波がいつに生まれるかといえば、質量四重極モーメントが
変動したときだと書きましたが、質量四重極モーメントの変動とはなんぞやら。
観測者と巨星の重心との距離が一定ならば、どんなに質量が大きい巨星が回転して
も、観測者の受ける重力は変化しない。常に、重心に質量があると考えればよい。
ところが連星の場合、観測者と連星の重心との距離が一定でも、連星が回転すると、
観測者の受ける重力は変化する。つまり、連星の場合、常に重心に質量がある
として、重力の計算をすることができない。これが質量四重極モーメントの変動。

重力波とは極端な例として、
d=R/2とすると、
連星と観測者が直線上にあるとき、
F=40GM/9R2
一方、連星の重心と観測者を
結ぶ線が連星と直交するとき、
F≒2GM/R2
つまり、両者は一致しない。


<出典>
重力波天文学-21世紀の天文学-
http://www.gw.hep.osaka-cu.ac.jp/
openworks/Niigata_viewgraph.pdf



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龍女「みなみ」からあなたへの
不思議なメッセージ集
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不思議の国の「みなみ」
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「みなみ」 今月のメッセージ

神津島の天上山は、
神が集う島のなかでも、
特に神の集まるところ。

プロフィール

舞尾 空

Author:舞尾 空
・性別:男
・年齢:46歳
・職業:サラリーマン
・血液型:O型

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